in the wilderness

荒れ野にて言葉を探す。北へ。南へ。

Nighthawks



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 エレベータ・ボーイ。彼をそう呼ぶには、あの手動式のエレベータ同様、十分に歳をとり過ぎていただろうか。私はその夏、シカゴの安ホテルにいた。手書きのレシート。仄暗いロビー。確か出入り口の通路の壁を穿った隣には、そこへ間貸りする格好で、気安い中華料理の食堂があったように思う。エレベータはアイアンの蛇腹のついた旧式で、老人はいつもその中の小さな丸イスに腰掛けていた。

 丸イスの側には一本の杖が立て掛けてあり、それは持ち主である老人の不自由な片足にとって、幾らかの助けとなる。小柄な体躯。深く乾いた皺の刻まれて輪郭の骨ばった顔。真っ白な髪は薄く頭に添い、顎鬚もまた同様に白い。その佇まいはどこか、もう漕がれることのない、褪せた木肌のボートを思わせるところがあった。粗末な身なりには違いなかったろうが、決してだらしないという訳でもない。いつも背広を羽織り、シャツにネクタイを締め、しかし黒い革靴だけは、どこから見てもすっかり草臥れていた。

 交わす言葉は決して多くはなかったが、毎日幾度も顔を合わせるごとに、互いへ寛いだ笑みを確認するようになった。ほんの数回、立寄った店でコーヒーを一つ余分に持ち帰り、そっと差し入れたこともあっただろうか。その返礼に老人は、近くに味の良い安食堂や、コーヒーショップを教えてくれたものだった。

 或る晩、私は遅くまでを外で過ごした後、最寄りの停留所のずっと手前でバスを降りた。まっすぐ部屋へ帰るのが躊躇われたのは、特に何か理由があってのことではなかったが、夜風にあたりたかったか。或いは少しの間、ただ何処かに座って過ごしたかったのか。ブロックを一つ歩き角を曲がった所で、小さく舗道へこぼれる灯りを見付け、終夜営業のコーヒーショップに入った。夜遊びに惚け疲れた若者たちや、仕事帰りと思しき看護婦。書きものに没頭する青年など、深夜の古びたボックス席に、ぽつりぽつりと点在する人々。私は窓際の席へ座り、ただぼんやりと、数日前のエレベータに見掛けた切ない出来事を思い出す。

 何処か近郊の田舎町から、週末を利用して遊びに来たのだろう。若い娘が二人、閉まりかけたエレベータへ駆けこんで来た。派手ばった化粧と胸元を大きく開いたTシャツ。上手く大人ぶったつもりなのだろうが、顔立ちはまだ十代の (ある種の凶暴さを備えた) 幼さを残して、安っぽい香水がつんと鼻を刺した。老人が訊く。お嬢さん方、何階かね?すると娘の片方がガムを噛みながら、ただ一つ、ぶっきらぼうに答える。3階。老人は頷いて柵を閉じると、ボタンを押した。丁度、私の真横へ並ぶ格好となった娘たちは、こそこそと密談を交わす途中に、押し殺した笑いを挟んでいる。それは一人の老人に向けられた、若く愚かな嘲笑であった。

 やがてエレベータが一度、がくんと大きく揺れて3階に着いたことを知らせると、娘たちは笑いをこらえ切れぬという風に、一瞥もくれず小走りに降り去った。間も無く、扉の閉じた後の廊下から、二つの大きな笑い声が憚らない奇声となって届いた。私は怒りと憐れみとの入り混じった遣る瀬無さに、彼の小さな背中を、肩を見詰め、沈黙を守るしかなかった。5階に着いた降り際に、手動の内扉へ手をかけながら、老人は小さく云った。

「良い一日を」

「有難う。あなたにも良い一日を」

 夜遊びに足りない若者の大きな笑い声で、ふと我に帰る。斜め前の青年はペンを持つ手を止め、今にも眠りに落ちてゆくところだった。丁度、ホッパーの一枚の絵が浮かんだ。私はこの場所の、この時間を切り取る。その一枚の絵の中に、虚ろで安らかなこの倦怠は漂うのだろうか。今頃、宿のエレベータは、夜番の大柄な青年が動かしているに違いない。何処かのスポーツジムの制服らしいポロシャツは、薄いブルーだったか。ありふれた金髪。四角い輪郭。この青年が取り立てて印象を残さないのは、整ってはいても特徴に欠けた顔立ちのせいだけでなく、我々の間の、ただ ”乗る者” と ”動かす者” というだけの、単純な関わりにあったのは確かだが、しかし老人と私の関わりも、それに大して違わない筈なのだった。そう、幾許かの感傷さえ除いてしまえば。私は乗る者 (そして降りる者) であり、彼は動かす者であり、そして互いの名も知らない。

 酔っ払いの奇声が、しんと冴えた夜更けの通りに響いては、消えてゆく。足早に歩く人々を時折眺めながら、皿の上のドーナツをかじれば、水気のない生地が上顎でゆっくりもがいた。無愛想なウェイトレスが、減った分だけ黙って注ぎ足してゆくので、カップの中のコーヒーはちっとも減らない。私は紙ナフキンで飛行機を折る。頼りなくぺらぺらの紙飛行機は、何処へも飛ばず、目の前にぱさりと落ちた。■