in the wilderness

荒れ野にて言葉を探す。北へ。南へ。

野生と静謐、或いは漂泊と定住。その間(あわい)の発見。



 火の近くへ椅子を寄せ独り、真冬の夜に聴くフルニエ、バッハ無伴奏チェロ組曲。たった四本の弦のみの、深々と澄んだ息づかい。そのふくよかな深淵の静謐に沈むことは、見知らぬはずの物事が記憶の一部としてよみがえるよな、ひとつの心地良い錯覚に似ている、と思う。そうして傍らに糸を手繰りながら、私ははっとしたのだ。野生と静謐の間にこそ、求める言葉があるのではないか。

 源流の佇まいを残した清冽な川の水の。蹄に蹄鉄を知らぬ野の馬の。乾いた荒地を駆け巡る風の、野生。この孤独な躍動の対岸に、厳かに澄む石の静けさがあったのだ。鼓室から静かに湧き起こった気付きは、やがて指先へと生きた血を運ぶ。野生と静謐。或いはそれを、漂泊と定住に言い換えることができるかもしれない。



 書くことは、必ずやなにかの役に立つものであるにちがいない。だがいったい何の?あのごてごてした小さな記号、ひとりで、ほとんどひとりで前進し、白紙を埋め、平らな表面に刻印し、思考の前進を描きだす記号の数々。ぼくはそいつらが好きだ。環や点線から成るこれらの軍隊が。紙の上につぎつぎと付け加わり数を増してゆく、神秘的な小さい記号の軍隊の不屈の意志、永遠の前進。そこには何があるのか?何がしるされているのか?それはぼくなのだろうか?ぼくはとうとう世界をもとの秩序にかえしたのだろうか?白い材質の、ただ一つの小さな正方形の上に世界をのせることができたのだろうか?ぼくは世界をはさみで切り抜いたのか?いや、いや、それについて思いちがいをしないことだ ―― ぼくは人間たちの伝説を物語ったにすぎないのだ。

― J・M・G・ル・クレジオ ―


 ”聖パブロの日に村じゅうを行列してまわる聖人” にも似た異邦人であった彼が、タラスコの地を流離いながら、棲み、文明と未開の断絶をゼロへと近付けることで、自らの中へ一人の未開人を認識したよに。私の見付けた、このふたつの間(あわい)もまた、ゼロに近付いてゆくのだろか。■