in the wilderness

荒れ野にて言葉を探す。北へ。南へ。

無花果


 道の途中のと或る家に犬が居り、また、猫も居る。猫は知らぬが、犬の名はコロと云う。何故犬の名を知ったかと云えば、小屋の正面に、油性のマジックでその様に書いてあるからである。何の変わったところ無い。赤鼻の雑種で、黄色い毛をして居る。其処の家では元々猫ばかりを可愛がって飼って居て、毎年わらわらと子が生まれる筈だのに、気付くといつも母猫一匹きりとなって、是が同じ母猫でないのは柄を見て分かるのだが、代々雌の猫を一匹選んで残すなどして飼い続けて居るのだろか。一体どうした風にして居るのやら、良くは知らない。
 コロの来たのは丁度、またぞろ仔猫が生まれた、五年程前の夏の頃であったか。月に一度帰ってくる末息子とおぼしきのが、雌の仔犬を一匹連れて来て、犬小屋まで運んで来て、そうしてそのまま置いていってしまった。この家の主は婆さんである。他所様の家のことだから、こちらがどうこう測ると云うのも不躾かとは想うが、恐らくは、末息子の住まいなどの事情で、仔犬を飼うつもりが飼えなくなり、思案の末、仕方無く実家に連れて来た。まぁそんなところなのではないかと考える。
 そもそも婆さんは滅法の猫好きであるから、すると当然、コロはなおざりである。仔犬の頃は、可愛さ余った登下校の小学生らに散々といじりまわされて、始終ちやほやされても居たのだが、なにぶん子供は飽きっぽい。その内大した見向きもされなくなって、コロは見る見るやさぐれた。売れぬ女郎がお茶を引いて居るよな倦怠の佇まいに、己が暮らしぶりはさて置いても、何やらうら寂しき心持ちを覚え、以来私はここを通る度、何故だかコロへ声を掛けずに居られなくなってしまったのである。
 コロの小屋と云うのが、また気の毒なものだ。最初は門の入り口の脇に在ったのが、今は簡易物置の置かれた庭の片隅に追い遣られて、じめと湿った無花果の木の下に在る。植えどころも土も宜しくないのか、無花果はずんぐりと背低く、足元の小屋へ不恰好な掌で覆うよにして陰を差す。ろくろく散歩へも連れに出しては貰えぬから、犬は犬なり鬱々となるのだろう。水捌けのしない地面に無闇矢鱈と穴を掘り、其処ら辺に雨ざらしの瀬戸の手水鉢だの、婆さんのサンダルだのが種々打ち捨てられて転がって、見るからに始末の悪いこととなって居る。
 それだけでも憐れを誘うに充分であるのだが、更なる憐れであったのは、一度、コロが子を産んだときであった。毛艶失せ、すっかり倦み疲れてやさぐれた顔つきで、見るからにうらぶれた様であったコロが、子を生み育てるにしたがって、実に活き活きと生気に溢れてくるのは、日々心痛めつつ経緯を見守って来た者にとって、如何に晴れ晴れと明るい安堵をもたらしたことか。
「良かったなあ。良かったなあ、コロやい」
 乳をやり、毛を繕ってやり、甘噛みしてじゃれ付く子らを、母親の器でうっとりと眺めて居る。やれやれ。やっとお前にも仕合せがやって来た。己の子の如く、しみじみ喜んでやって居た矢先である。或る日通り掛かると、仔犬らの姿は皆丸々消えて居た。コロはすっかり気の狂ったよになって、鎖を絡ませ、同じ所をぐるぐると廻るばかりである。聞けば婆さんが、方々他所の家にやったのらしい。
「どうしたものかねぇ、コロよ・・・・・」
 遥々と遠く遣る瀬無く、私は只、この憐れな雌犬をじいと見るばかりであった。



 あれから幾年か経ち、私は変わらずここを通って居る。猫はまた子を生み、コロも変わらず倦み疲れて居る。
「おい、コロ。今日はまた妙な天気だね」
 声を掛ければ、ぬうと柵の間から長い鼻面を突き出して、私はそれを撫でてやる。この犬は、すっかり諦めてしまった風である。観念して諦めて、倦み疲れては居るが、それですっかり、穏やかとなってしまった風である。
 幸い、日の差さぬよになって居た無花果の後ろが、さっぱりと更地となったお蔭で、じめじめとしたコロの小屋にも、幾らかの日の施しが出来たらしい。無花果の葉から薄くこぼれた日だまりに、すうと静かな顔して眠って居る。■